2007年12月22日土曜日
冬の日、ランタンの愉しみ
最近のわが家の食卓での定番がこの「灯油ランタン」のあかりである。
来年のキャンプシーズンが待ちきれず購入。雰囲気だけでも、と試しに室内で点火してみたのが始まり。すっかりその柔らかげな明りの虜となってしまった。
夕食時はもちろんのこと、ランチの明るい日中でも、とにかく食卓を囲んで「いただきます」の前にカチッとガラスの火屋をせり上げてライターで点火。 ジッと静かに燃える火に照らされると、残り物のおかずでも何だかごちそうに見えてくるから不思議だ。 騒がしくおせっかいなテレビを消すと、テーブルの上にはとっても豊かな時間が流れ始める。
わが家は築30年の建物なので暖房があまり効かない。窓は結露がびっしり、ストーブに張付いていても寒さから逃れられない日もある。ところがランタンが輝き始めると、その寒さすら炎の引き立て役にすら感じられてしまう。
(おすすめは雪降るような寒い日に、真っ白な湯気があがるカフェオレを飲みながら使うのがいい。)
炎の魔術か、丸い夕日の様な火を眺めていると気持ち良すぎて眠くなってしまう。そう、数字上の温度ではなく「心の温度」が暖まっていくみたいなのだ。
思えば昔から人々の団らんや食卓の側には必ず「火」があった。火は体を温め、冬の闇を追い払う光でもある。それがいつしか日々の暮らしから追いやられて、焚き火すらぜいたくな社会になってしまった。そして何も語らずとも火を囲むだけで満ち足りた時間すら失ってしまったのではないか。現代の家がいくら高断熱=恒温化しようとも、日だまりや炎の育んだ人の温もりに替えることはできないだろう。
この冬の日のランタンの愉しみ、とくに薪ストーブをあきらめていた方へぜひおすすめです。でも火の扱いと換気には十分気をつけるようにしてほしい。
2007年11月28日水曜日
街かど美術館に行ってきました
もっと早く告知すれば、皆で見に来れたのに!と悔やまれるぐらい良かった・・・。
週末に行ってきたのは、岩手県花巻市東和町の「アート@つちざわ2007」です。最終日でした。4人の美術作家が小さな商店街の60箇所程に作品を作り上げ、この一ヶ月間の期間公開していました。会場のほとんどは営業中の店舗と、空き家や空き店舗を利用。普段は眠ったような街に多くの来場者やスタッフボランティアが戻ってきてた、と現代アートすら良く分からない地元の商店のおばちゃんも興奮交じりに私たちに話してくれました。
合併吸収の時代の荒波に、我が町のアイデンティティを守ろうという団結が沸き起こり、3年前の第1回の開催につながったそうです。
2007年7月26日木曜日
2007年7月25日水曜日
2007年7月10日火曜日
大河原・佐藤屋の夜
とても充実した時間でした。
生まれ育った町内にこんな場所・空間が存在していたことにがく然ともしました。
創建は昭和14年。優劣は比べれませんが、丸森の斎理、白石の壽丸に匹敵する価値を秘めた建物でした。
程度の良さでいえば、最近まで住んでいた故に抜群に断トツです。
きっと白石の人が壽丸屋敷に初めて立ち入った時の感動を、どことなく追体験しているような気分にもなりました。
今回は「よつばのクローバーの会」という絵本読み聞かせの団体が主催となっていますが、本当の主催者はこの佐藤家の親類である佐藤氏が楽団「くものすカルテット」に惚れ込み、
ボーナスをつぎ込んで実現したという話です。えずこの知り合いもPAサポートとして参加していて、このような場所と人のつながりが育まれていたことにも感心しました。
肝心のライブも予想以上に楽しいものでした。お屋敷の雰囲気にぴったりの昭和歌謡やアジアの古い楽曲を懐かしめのジャズアレンジで飽きることがありませんでした。
やはり全国の同様な古い建物のライブが多いらしいのですが、こんなに素晴らしい建物には出会ったことがない!と一目ぼれの言葉に力が入っていました。
懐かしさと新鮮さと疲労感で包み込まれた七夕の夜。
しかし今後の活用方法、継続のしかた、建物に囚われることなく新鮮さを保つにはなど、色々考えさせられる時間でもありました。
2007年6月22日金曜日
ものづくりはうれし
2007年5月1日火曜日
和紙と壁塗り
2007年4月26日木曜日
今回の建材?
2007年4月4日水曜日
「ピタゴラ装置」 DVDブック1
2007年4月3日火曜日
「風の影」サフォン
やっと読み終えました、カルロス・ルイス・サフォンの「風の影」。
本当に小説を読んでいなくて、読書のエンジンが暖まるのにずいぶん時間を浪費した。
初めの30ページをめくるまで半月、それから上巻半分までが1週間。
しかし上巻の残りと、下巻全ては1日かからなかった。
読み終えたのが今日の午前3時。
入れ子構造の小説の城郭都市の内部にいるような気分のまま床についた。
(『霞の天使』の館そのものがバルセロナの都市の象徴でしょうね。)
書評するほど物を知らないが、ゴシック小説の装飾を纏った人間の孤独と和解の物語だった。
そして何よりも読書の奥深さと意味について再び教えられた。
「本を読まなければ本当の自分を見ることはできない。」という小説のセリフの通り、バルセロナの思い出が五感と共に鮮明によみがえった。
サグラダファミリアの尖塔のてっぺんの小便の匂い、パリからバルセロナへ向かう列車のコンパートメントの夜の孤独、石の通りに響くバルからの笑い声。
ただの自慢話になりかねない、けれども紛う事ない確かな記憶の一部を共有できた、幸福な時間。
おもしろかったですよ。misaoさん。
2007年3月30日金曜日
建築とオートバイ
もう一度オートバイに乗り始めた。
学生時代は交通手段は250ccの中古のオフロードバイクしかなくて、毎日、雨の日も雪の日も当たり前に乗っていた。10年を経て久しぶりに乗ってみると、走りの感覚は割とすぐに戻ったけれど、運動不足による腰痛と体の切れの悪さがまるでオイルが廻っていない歯車のよう。
むしろ体の変化よりも気持ちの変化の方が大きいかもしれない。 今考えると、20代は恐ろしい位の無茶をしていた。30代の今は少しは無理をしなくなった(と思う)。 ハンドルに仕事や家族への「責任」というものがぶら下がっているからだろう。
また、ファッションに気を使うようになった。 安全面への配慮もあるがオートバイ乗りは一種の美学で乗っているわけでダサいのは乗る意味すらない。きっと装備を大事にすればそれだけ安全運転にもつながるだろう。
もう一つ、クルマという足がありながらあえてバイクに戻る、ということの価値を考えながら乗っていることだ。維持費は軽自動車並にかかるので、道楽といえば道楽に違いない。スピードをだせばストレス解消にもなるのかもしれない。あるいは慢性的な日常のアカを落とし、ちょっぴり「自由」な気分を手に入れたいからだろうか?
でも、見た目ほどオートバイは自由な乗り物なんかじゃない。
何せ自分の身体にサディスティックな感覚を刻む乗り物だ。雨が降れば濡れるし、風に当たれば体は冷える。音楽はエンジン音と風切り音だけ。なによりも転倒すれば只では済まない緊張感が常に伴っている。だけども他の乗り物、つまりクルマでもヒコウキでも、ある質量の物体が高速で移動する乗り物は全て本質的には危険なものだ。 安全とは本質が身近にあるか否かの認識と距離感でしかない。
(これは建築でも一緒。)
オートバイはむき出しの危険と乗り手の理性がバランスを取りあって走るもの。「死」と「生」の境界線を斬り結ぶように突き進んでいく感覚の一瞬を、きっとライダーなら誰でも味わったことがあるはずだ。 あらゆる生の選択の一瞬はこの手この足にある、ということを。
この本能的な自由意志の在り処に気づけるのなら、 オートバイは自由な乗り物になれる。
僕が乗っているのはヤマハ発動機のSRXというマシン。17の時に憧れていた、原点のようなオートバイだ。あのイノセントな不安な毎日と、地平線の向こう側に自分の居場所と自由を求めていた十代の感覚にはもう戻れないが、ハンドルを握ると、一方では時間が経っても何一つ変わらない自分と会話しているかもしれない。
路上の風の中で。
2007年3月28日水曜日
ピクトグラムスイッチ
2007年3月25日日曜日
家が生まれた日
2007年3月16日金曜日
バケガクの人、求ム
20年ぶりに化学記号とにらめっこ。さっぱりわからない。
生石灰と海水の反応を考えているのだけれど・・・
生石灰CaO + 海水(H2O) + NaCl + CaSO4 + MgCl2 + KCl + MgSO4 + etcがイオン化)
→消石灰Ca(OH)2 + 石膏CaSO4 + Mg(OH)2????
・・・さっぱりわからん。
塩化水素とか苛性ソーダなど危険なガスが発生しない条件を考察してみたが、化学の基礎的な知識に欠けていることを再認識。
錬金術には欠かせないものだったそうだし、石灰石って古くから人間が化学発展のため欠かせない物質だったが、日本の左官技術での扱われ方はどれくら体系的だったのか知りたくなった。
2007年3月12日月曜日
狸庵の休日
2007年3月7日水曜日
無垢考
芯まで本物の素材を「無垢材」という。 なぜ「無垢=手あかのつかない=汚されていない」というのだろう。
僕の設計した建物はなるべく素材そのままに使う。 無垢だけど、傷つきやすいし、汚れやすい素材ばかり。 便利グッズみたいな新建材より、 それらは加工に手間がかかるので、そう高価な素材も使えない。 和紙とか鉄とか木とか、一応保護材で処理するけれど、 平気で汚れたり錆びたりする。 維持するためには大掛かりな装置が要らない代わりに、 普段の手入れが必要になる。
それでもテフロン加工とかされたものとか光触媒とかに比べれば、 時の経過の痕跡は残りやすい。 設計も決してラクではない。 なぜ好んでその様な素材を使うのだろうと暫し黙考。
健康に良いから?味わい深いから?安いから?・・・永久に建物に封印する判断としては、どれも決め手を欠く。
理由を探すならば、・・・むしろ傷つきやすく、汚れやすいから良いのである。 それは人も同じだと思うから。傷つかず、汚れない人間と話しても会話にならないだろうし、接しても心は融け合わない。上辺だけのキレイな顔をはがしたら、全く違う顔が隠れていたなんて、 そんなヤツは信用できない。仮に表面の加工技術が進み、眼はごまかせるようになっても、他の五感全てをだますことはできない。むしろ目では木に見えても匂いはプラスチックではその違和感の方が気持ち悪い。
傷や汚れは人の痕跡、しるしだ。僕はデザインに迷うとき、まだ出来ていない建物の終局の姿、つまり朽ちても廃虚になっても美しい姿になる方向を選択している。
やっぱり木は木で、プラスチックはプラスチック、 鉄は鉄、石は石のままであってほしい。
嘘をつかず、揺るがない。 汚れても傷ついても年をとっても正直であることを恐れない。 きっとそれが「無垢」の意味なんだろう。 何か人付き合いにも通じそうな話です。
僕ならそんなモノ達に囲まれて同じ時を刻みたい、と思う。
2007年3月6日火曜日
2007年2月27日火曜日
郷愁への旅
僕はその時代を知らない。
今年の初め、正月旅行気分で「くりこま田園鉄道」に乗った。このローカル鉄道は今年3月中に廃線になってしまうので、これが最初で最後のチャンスであった。普段、自家用車に慣れてしまうと「わざわざ電車を乗りに」というのはマニアでない限りかなり億劫に感じてしまうが、最後、の焦燥感に駆られて駐車場のある細倉マインパーク駅に向かった。
細倉マインパーク駅はその名の通り、鉱山で賑わった町だったが、今は昔、正月休みのせいもあって駅にも通りにも人気が無い。時刻表の時間つぶしに「東京タワーのロケ地」の立て看板に引かれ、無人の従業員向けの社宅地を歩く。昭和30年代の雰囲気そのままに撮影セットに活かされた町は荒野のよう。長髪の僕はオダギリ君に間違われはしないか、と不要な心配をしながら沈黙の窓が並ぶ通りを歩く。晴天のまぶしい太陽の影が、巧妙な化粧を施され大道具と化した、フェイクな情緒を浮き上がらせ余計に淋しくなる。
やがて1時間に1本の電車の時刻となり、おにぎりとペットボトル茶を買って駅に向かう。ピストン運転のプラットホームは予想以上の賑わいで、窓辺の小さな一人掛けの椅子に座って落ち着くころには8割方の混み様である。軽やかなテープのアナウンスの後、発車した。
冬の午後2時の光は優しい。狭い谷あいに沿うように古い枕木の上を1両編成の電車がゴトゴト走っていく。あらゆる年齢層の乗客の賑わいは、かつての全盛期の光景だろうか。その手にデジカメやら機関砲の様な一眼レフが覗いていることを除いて。田園地帯に出て、のどかなだなぁ、と目をやると田んぼの中から何台ものアマチュアカメラマンの集中砲火を何度もあびる。車中も車外もカメラ、カメラ。僕の様に昭和30年製のハーフカメラを携える位のセンスはないのか!、、、とはいえ所詮同じ穴のムジナ、いやヤジ馬には違いない。
郷愁という名の電車に乗って、捨てたはずの「人情」「団らん」を求める客を乗せ終点へと走る。この電車はどこから来て、どこへ行くのか。この廃線の姿は決して過去の光景ではない、という危機感が夕暮れとともに募ってくる。事実、地方のどこでも見近な日常の足が民営化、企業の不採算性・撤退、補助金減少などで消えていっている。既に高齢者や子供など交通弱者が移動できる手段は限られているのだ。確実に地域の火が沈黙しようとしている。
こうして始発駅から折り返すころにはノスタルジーという気分はすっかり消えてしまった。陽はすっかり西に翳り、ハーフカメラのフィルムも使いきってしまった。車内も閑散な普段の姿を取り戻す。駅前の小さなスーパーにフィルムを買いに入った。精算を済ますとレジの若い女の子からお釣りと一緒にお年玉の包みを手渡された。
「これは?」
「ご年始です!」 と屈託の無い笑顔。
光にかざすと五円玉のシルエットが見える。・・・ご縁か。冷えた心に微かに灯がともる。人も地域もだれかと繋がっていたいのだ。
このご縁入りの包みは、まだ封を切られずに財布の中にある。
2007年2月20日火曜日
初心に帰って
書きたいことがうずたかく心のダムに溜め込まれているのに、それを落ち着いて文章にすることができない、余裕の無い日々が続いてしまっている。このまま続くと堰が決壊しそうである。
単純にスケジュールが混みあっているから、と思い込んでいたが、どうもそうではないようだ。
誰が読むかも分からないネットのページ、「上手くまとめて」「多くの人に分かりやすく」「格好良く」と体裁ばかりを気にしすぎて膠着していたのかもしれない。
このエッセイはそもそも設計やデザインを語る前に「人間」として日々どんな考えでいるかを、少しでも興味を持っていただいた人々に伝えたい為に設けたものだ。共感した人とものづくりをした方が良い仕事ができる可能性が高いし、エッセイへの賛成反対も含め「人とつながること」(最近僕は脳外シナプスと呼んでいる)の足がかりを期待しているからだ。
言葉は難しい。人と人が分かりあうことはもっと難しい。だから理解されなかった時の失望を恐れ、人は口を閉ざし、あるいは多くの言葉の壁を築いてしまうのだろうか。知らない間に築いてしまった壁は、よほど豊かな耳を持つ人との出会わない限り気づきにくい。あぁ、かつて灼熱のインドの路上にいた23才の私は、「水を!」と世界に叫んでいたではないか。
初心に帰って、新しい出来事も、大昔の出来事もできるだけ放出していこうと思う。言葉選びはできるだけ慎重にしたいと思うが、読みにくい文章になるかもしれない。何卒ご容赦を。
(メールで異論反論などコメントを頂ければ励みにもなります。)
ということで今年初更新のエッセイ。
恒例の年賀状拙画を載せて、ア・ハッピー・ニュー・イヤー!(笑)
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