2011年7月23日土曜日

ブログ再開とこれまでの事

2011年3月11日から4か月半近く経過し、Twitterでは地震直後から状況を発信していましたが、更新が停まっていることでご心配おかけしました。
また様々な方面から励ましの声や支援を頂き、 改めて多くの方々との絆と支えによって生かされていることを強く温かく感じています。誠にありがとうございました。

震災以降言葉が体験に追いつかず、ブログの更新が滞ったままでしたが、記憶を風化させないためにもできるところから綴っていこうと思います。時間が経過したからこそ書けること、想うことを少しずつ更新しながら書いていこうと思います。

■震災直後
[事務所で被災]
地震発生時は名取市の自宅兼用の事務所で遅い昼食の後の微睡みの中にいた。 そこにテレビから地震警戒速報が流れ、異常な地鳴りに気づいて、玄関のドアを開けたところで烈震が到達。外れた浴槽の水で浴室はプールになり、窓の外では倒れた高架水槽から溢れる水が滝のように降り注ぐ。その向こうの家々の屋根からは茶色い土煙が舞い上がっていた。長い地震が一旦止み、ミキサーでかき回されたような室内を出て駐車場の車に入った。そとでは冷たいみぞれ雨が降り注いでいた。ラジオをつけるとアナウンサーは大津波警報を叫び続けている。ただならぬ事態に避難の身支度をする為、余震の中部屋に戻り、キャンプ用品、充電器、毛布などを家具の中から掘り起こした。1時間近く経過してからだろうか、眼下の川をのぞくと水が堰止まり、ゆっくりと上流に逆流を起こしていた。津波の影響かな?と考えながらも、河口から8kmあるこの場所で影響がでること自体異常なこと。だがこの時点では沿岸部があの過酷な状況になっていることなど想像つかなかった。

[避難所での5日間]
電話やメールがつながらない中で、唯一Twitterだけが通信可能だった。とりあえず自分の安否を投稿し、離れ離れになっている家族との合流を急いだ。日暮れまであとわずか。時間がなかった。信号が消えて渋滞する道や、ブロック塀が倒壊する道を通って、勤め先だった小学校に到着。そこで妻と合流し、離れた娘の保育所に急いだ。車中、ショックで動揺する妻に叱咤激励しながら只々娘の安否を案じて祈った。
娘は無傷だった。3人揃ったところで停電する街は急激に暗くなっていった。余震も頻繁に続いている。津波も状況が分からない。そこで万が一を考えて、自宅に近い私の母校、仙台高専に避難先を定めることにして向かった。
高台の校舎について目にした町の光景は忘れられない。東の空を赤黒く巨大な炎と煙が立ち上っていたのだ。頻繁に行き交う赤色灯とヘリコプターのエンジン音。底なし沼の様な不安から逃げるように、発電機で灯る避難所の食堂へ向かった。
避難所となった合宿所は布団が敷き詰められ、多くの学生や住民が不安な表情でラジオから流れるニュースに聞き耳を立て、余震の度に身を強ばらせていた。私たち3人は幸運にも一つの布団を確保でき、見知らぬ人々と隣り合わせて抱き合って眠った。

この避難所は食料・寝具・避難者の数などの点で穴場的余裕があった。また十代の学生が多く活気があり、コミュニケーション上手なお母さん達の活躍もあって、早くから自治意識が芽生えた。
また技術系の学校の強みで太陽電池があり、発電機のガソリンが乏しくなっても私達はテレビを見ることができた。初日に見た赤い火は遠くのコンビナートの火災からだった事も知る事ができた。
 震災後5日間の主な情報源はテレビ・ラジオ・新聞だが、ニュース画像では繰り返し津波が街を襲う映像が流れ、見ていて具合悪くなってしまい苦痛だった。携帯電話は初めの3日間はほとんど役に立たなかったので、安否を尋ねる為には公衆電話まで暗くて長い坂を歩かねばならなかった。
  奇跡的に実家の父母の無事が確認取れ、不便な避難所では幼い娘は足でまといになるから、と2日目の夕方に迎えに来てくれた。子供と離れ離れになるのは辛かったが、一日でも早く自宅と事務所を片付けて正常に戻るにはより良い選択だと考えていた。原子力発電所の事故が起こるまでは…。

[放射線からの逃避行]
3月14日、カーラジオから原発事故の深刻な事態を伝えるニュースが流れてきた。避難所ではすぐ目の前の仮設トイレに行く間でも雨に濡れないように呼び掛けがあった。食事の配給も2食に戻り、集団心理特有の不安の連鎖が拡がり、酒に走る人も出た。夜は暴漢が出没するという噂も流れ、灯火の無い街の中、かすれそうな電波でやり取りできるメールやTwitterでの励ましが支えとなった。

僕と妻は娘をより福島に近い実家に一人避難させた事を悔いていた。しかし一方で設計でお世話になった方々の所へ訪問できずにいる焦りもあった。娘を迎えに行くにも、仕事でまわるにしてもとにかくガソリンが無かった。ところが幸運にも近くに住む友人のDさんから給油の情報を頂いた。彼が足を使って得た貴重な情報だった。翌朝、僕らは携行缶をもってスタンドの行列に加わった。早朝にも関わらず、多くの人が押し寄せ、口々に不平不満をいう。しかし1時間程度で20リットルのガソリンを給油できた。車の燃費が10km/Lとしても、タンクの残量加えれば200kmは走られる。ひとまずガス欠に備えて自転車を車のルーフに装備して、夜、娘の待つ大河原へ向かった。信号だけが灯る暗い国道。遺体安置所となっているボーリング場の暗闇に合掌しながら南下していった。
愛しい娘との再会の喜びもつかの間、次なる行動の選択に迫られていた。白石市の知人は家族ともども連れて山形に避難した等とも聞くと冷静さを失いそうになる。しかし17日には電波状況が改善されてきて、知人友人の安否も徐々に分かってきた。特にダイヤモンドヘッド女川のオーナーのご家族の安否を一番心配していたのだが、パーソンファインダーで無事を確認したときは奇跡とすら思え、またあの街の生き証人みたいなお店が地震や津波に軋みながら「生命を守る」という最低限の務めを果たしてくれたことに感謝していた。
こうして電話やメールで設計した住宅などの被害もない事が分かり、僕らは放射線からの避難を優先することにした。実家を18日に出て、自宅で2晩明かし、更に予備の燃料を10L入手して福島から離れた北へと出発した。目指すはオンドルの家・狸庵。様々な選択肢はあったものの、娘の健康も心配だったが、余震が続き物資が不足する生活からの来る緊張から一時的に逃れたかったのが大きな理由だった。その点、狸庵がある岩手県奥州市は内陸部の為津波の影響はなく、ライフラインも復旧していた。何よりも家族同然の付き合いをさせて頂いていたオーナーご夫妻の気さくな人柄、そして暖かなオンドルがまだ冬の名残の残る季節には安心して身を寄せられる空間があった。
狸庵の周りの胆沢の風景は実に雄大で美しかった。美しすぎて、190km彼方で起きている悲劇がこの風景とあまりにもかけ離れている事が悲しくなった。数日後、小さなお子さんを持つ友人夫婦も狸庵に合流し、終わりの見えない不思議な共同生活が始まった。
美味しい食事と暖かな部屋、静かで豊かな自然の中で、昼間は子どもたちが合宿の様な雰囲気の中で、喧嘩したり仲直りしたり、泣いたり笑ったりして、夜になると大人たちは悩みを語り合ったり、今後の選択の議論を重ねた。
(4ヵ月後に分かったことだが、放射能の蒸気はこの遠い岩手の地にも流れこみ、皮肉にも宮城県南部と大して変りない線量だったらしく、僕らの避難の意味はなかった事になる。それでも精神的な救いとなった点ではこの滞在が間違っていなかったと思う。)
放射線の怖さとは、「見えない」ことだと思う。
一種の太古の呪術的な世界に似た恐怖に類するものではないだろうか。高度な数式の上に築かれたハイパーテクノロジーであるのに、制御の手立てが無く、祈るに等しい状況とは一体どういう事なのだろうか。オンドルも「炉」という点では同じだ。だが人類が長い時間掛けて積み上げてきた火への用心と備えと技術が違う。圧倒的にシンプルで構造が誰でも把握でき、快適さと共に労働や我慢という対価を支払う。生活に労働を排除していく方向に現代住宅は進んでいる。オール電化やソーラーパネルを僕は否定しないが、「誰の労働の上に利便性が保たれているか」という問いかけを今回の地震は洗いだしたのではないだろうか、と薪ストーブの炎を見ながら考えた。


■4月
[仕事の再開 ]
1週間岩手に滞在後、妻子を狸庵に残して宮城に戻った。高速道路での一般車通行が開放されたばかりで、極めてスムーズに帰宅することができた。しかし水道がでない、崩れた家財の中での単身赴任は人恋しく、夜は友人宅に泊まったりして気を紛らわせながら自宅の復旧を進めた。
しかし事務所の片付けと再建は一向に進まない。膨大なモノに囲まれて生活していたことをこれほど痛感したことは無い。大量のカタログを処分し、壊れた機器を廃棄した。また崩れた棚の下敷きになったこれまでの住宅模型のほとんどが事務所から消えた。ようやく片付いた机の上で「さて何から始めるべきか?」と一種の記憶喪失にでもなったかのように、集中できる環境にはまだ程遠い状態だった。
だが問い合わせがあった住宅の被災相談に出かけたり、設計した住宅の方々を訪問することで自分の仕事が根ざしている部分の意識を取り戻していった。

[水道のない生活]
妻子は4月1日に間に合うように戻ってきた。ようやく片付けで床が見えてきた自宅で再び3人暮らしが始まった。それに連れて水の使用量が増え、水道が出ない生活の不便さが顕になってきた。地震直後に高架水槽が倒れて以来、近くの小学校から汲んできた水タンクを階段で4階に運ばなくてはならなかった。
節水!節水!といっても限界がある。「もうちょっと大切に使ってよ!」と夫婦の口論もひんぱんに起こる。周りの住宅ではとっくに水道が回復していたので、傾いたままのタンクを放置している不動産屋への不満も高まる、とどうも雰囲気が悪い。その中ではお風呂を借りに訪問する友人宅でのお喋りが何よりの癒しであった。人は語り合える場があることで孤独から救われることを日々感じて生きていた。
この水道のない生活は4月28日まで続いた。

[女川へ]
震災から約1ヶ月経った4月13日、初めて女川町に足を運んだ。白石の丸秀酒店の阿部さんによる甘酒の炊き出しの手伝いを兼ねてだが、第一の目的は被災したダイヤモンドヘッド女川の岡さん一家を見舞うことであった。避難所となっていた小学校の校舎に向かうと、真っ黒に日焼けして精悍な姿の岡さんがそこにいた。お店の灯台漆喰を手がけた太宰さんも同行していて、ガッチリ3人で握手をして無事を讃えた。奥さんのお腹には臨月の赤ちゃんが宿っていて、知り合いから集めた女児の肌着やマタニティ用品を届けた。

 岡さんの案内で、お店が建っていた場所に向かった。そこに向かう道沿いにかつての町の面影はなく、土煙が舞う礫砂漠の風景に言葉を失った。対比して澄み渡る青い空と海が眩しかった。
 ダイヤモンドヘッドは、辛うじて土間の痕跡を残して跡形もなく消滅していた。砂利や漁具にまじり、壁に使っていた雄勝石スレートの板を数枚拾うことが出来た。調査で見た床下の空間が陽の下で顕になっている。重機のエンジン音が鳴り響く中で、記憶の破片を拾い集めた。
 ただひたすらに無念であった。悔しさに視界が涙で滲んだ。
 確かに人命に比べれば建物の命運は二の次かもしれない。だが素敵な店を作ろうと岡さんと夢を語り合った時間、地元の大工と真正面にものづくりでぶつかった時間、完成した喜びと、地域の人々に愛されていた記憶が一瞬で消えてしまったのだ。
 このような得も知れぬ衝撃に貫かれ、さらに家族を喪失した人がいこの町や、沿岸部300kmに連なって立ち竦んでいるかと思うと、私は虚しさよりも怒りを感じた。
 そして復興の兆しさえ見えぬ土地に留まり立ち続けようとする岡さん一家を応援したいと思った。

 迷いに迷いながら、避難所を去る際に1枚の企画書を彼に手渡した。人と人が語り合い飲食を共にでき、ばらばらとなった街の人々の心をつなぐ為の仮設のカフェ、「女川コミュニティカフェ」のスケッチが描かれていた。岡さんは「これだよ!これ!」と笑顔を弾ませ、僕らは2度目の固い握手をした。


[桜の下で]
4月17日、震災直後に避難していた近所の学校でささやかなお花見会が開かれた。避難住民有志で企画し、多くの懐かしい顔がブルーシートを囲んで並んだ。風はまだ冷たさを残し、満開にはまだ少し足りない蕾も多かったが、1ヶ月という激動の時間を経ての再会に話が尽きることがなかった。
若い学生さん達から2歳の私の娘までが一緒にボールで戯れ、無邪気な笑い声であふれた。寝食を共にしたのはたった5日間だったのだけれど、かけがえの無い仲間となっていた。

そして僕らは西陽に輝きを増す桜の下で、期限のない再会の約束をしてそれぞれの家路についた。