2006年3月19日日曜日

現代ケイタイ考


使っている携帯電話が老朽化していて、先日ついに機種変更した。
今回もドコモのNOKIA製(NM850iG)を選んだ。
同社のNM206、NM502iと、初めてケイタイを使い初めてからNOKIAばかりを使ってきた。 理由はそのボディデザインとツールとしての人との距離感である。

その製品全てではないが、手にしっくりとくるボディデザインが多い。
新機種を持ってみると実に絶妙な「持ち心地」がある。
まるで陶芸で粘土の固まりをぎゅっとつかんで、 手から絞り出されたような感覚。
親指の付け根の腹・人差し指・中指の3点で固定され、 親指一本で楽にタッチできる。
しかも左右の手を持ち替えてもさほど違和感がない。
まるで「情報の手」と握手しているような感覚。

購入して数日しか経たないが、 すでに手の感触になじんでしまった気がする。
こうなると日本のケイタイがTVのリモコンの類に見えてしまう。
最近は意匠の華やかさは増した感はあるが、
表面を除けば既成の操作性から何も進歩していないのではないだろうか。
それがNOKIAの「一掴み」でストレートに感じてしまったのだ。
同じ北欧の家具といい、この手のこだわり方が実に優れている。

反面、NM850iは今回DoCoMoブランドで出されたことで、
機能が大幅に制約されたものとなった。
(カメラの画像をメールに添付できないなんて!)
NOKIAのオリジナルのモデルは、
話せる文房具(PDA)=スマートフォンというコンセプトがデザインの軸となっている。
まるで通信料を払わなくても使える機能をドコモが阻むかのようにさえ映る。
文房具の進化形であるNOKIAと、情報(=テレビ)リモコン化する日本のケイタイ。
単なる端末のデザインから、
個人の情報能力の拡張と通信会社のせめぎ合いが見えるようだ。

ただ、旧態依然とした専売公社的な発想しかドコモができないようならば、
今回がドコモとしての最後の機種変更になる気がする。
日本のケイタイにはもっと人間寄りのデザイン、
ソロバンや包丁やカンナのような発想があってもいいと思う。