2004年7月26日月曜日

川猫マス尾のエッセイ 最終回


[地域情報マガジンWindsの宮城県名取市担当時代のエッセイを転載]

 我が輩はカワネコである。名はマス尾。

 宮城県ナトリ市の増田川に住んでゐる。
 暑い日が続く。夏が苦手な我々は、夕方になってから散歩を始める。だが同じ時間帯に橋に現れるのが「カップル」達である。二人だけの甘い世界を作り上げ、公園の茂みならいざ知らず、ナゼわざわざ目立つところでベタベタできるのか、と不思議である。
 だが、橋の上という所は意外と盲点なのである。ほとんどの人間にとって「対岸へ渡るための装置」でしかない橋の上で、のんびり立ち止まるのは少数の暇な人間とネコ位である。何の隠れ場もないように見えて、実は都市のエアポケットでもあるのだ。
 人間達にとって恋の舞台設定は大事である。人目を引かない大きな公園や海岸に人気があるが、他方で住民にとってはムダな「暗闇」や「茂み」は犯罪を呼び寄せる、とマイナスの面が目立つようだ。しかしそれを消そうすればするほど残された「影」が濃さを増している気がする。 同時に「誰かに会う」ということが、最近はどんどん短絡していき、やがてネットの世界が現代の「茂み」となってしまった。現実の街や通りはただモノが通過するのっぺらな通路となり、我々ネコはその速度に道路の向こうに渡れず、恋の季節に必ず誰かが車に轢かれてしまう・・・。
 この傾向は社会から物語が失われていくのと歩みを同じくしている。

 再び橋の上のカップルを見ると、暗くなるというのにまだベタベタしているではないかっ!まぁいい。だいたい橋はとてもドラマチックな舞台なのだ。七夕の物語の如く、此方と彼方を結ぶシンボルでもある。恋人達は直感で街のステージを見つけだし、彼らだけの物語を紡いでいるに違いない。

 我々川猫にとっても素敵な恋ができる街になって欲しい。
 そして街に恋をし続けたいと思って、我が輩は今日もポテポテ歩いてゐる。

2004年7月19日月曜日

川猫マス尾のエッセイ 第3回


[地域情報マガジンWindsの宮城県名取市担当時代のエッセイを転載]

 我が輩はカワネコである。名はマス尾。

 宮城県ナトリ市の増田川に住んでゐる。

 この川は、よく見れば色んな生き物を見ることができるが、それ以上にゴミがよく目立つ。老若男女平等にゴミを投下しているようだ。ゴミも観察すると面白い。助平な本がある場所、タバコの吸い殻が集まる場所など、そのポイントはだいたい決まっていて、そこから人間の行動が読みとれる。しかし時にはガマンならん時もあるのだ。
 ある夏の晩、川で花火を見上げていると、走り去るバイクの音と共に、突然橋の上から大量のビニール袋が降ってきたことがある。野球選手の写真が入った新聞勧誘のビラである。無論、ネコや魚が新聞を取るはずがない。祭りに心はやるバイトの兄ちゃんが、仕事を早く切り上げようと棄てたに違いない。

 華やいだ気分を汚され、我が輩は怒り心頭でその新聞販売店に(神通力で)電話を入れた。

「おたくのバイトが、川にビラを投げ捨てているぞッ!早く回収しろ!」

しかし店主は素直に信じようとしない。

「じゃ、ケーサツに通報しますか?」

と提案すると、ようやく誠意を見せてくれた。

 果たして本当に暗闇の中拾ったのか、それとも流されてしまったのか、一面にあったビラが朝には消えていた。

 大雨の増水時、実に色んなゴミが上流から下流へと流れていく。まるで回転寿司のようである。だが、誰かが手に取るまで回り続ける寿司とは違うのは、ゴミが一直線に母なる海へと流れて行って、我々の目の前から消えていってしまうところである。そして見えないところで、賽の河原のごとく、わずかな人々がゴミ拾いに汗を流している。このままでは海岸から永久にゴミが消えることは無いだろう。下流の人が上流の人を非難するのを聞いたことはないけれど、お互い協力すればナトリ市としての一体感が生まれ、もっと仲良くなれるのになぁ。

 そして流れ着いたゴミを見ながら今日も思ふのである。要らなくなったものが全てゴミだとするならば、我が輩も生ゴミのひとつに過ぎないのでは、と。

※ 県「動物愛護」センターで1年間に殺処分されたペットの数は、犬1,628頭、猫5,689匹(平成14年度調べ)である。その数は年毎に増えているという。

2004年7月12日月曜日

川猫マス尾のエッセイ 第2回


[地域情報マガジンWindsの宮城県名取市担当時代のエッセイを転載]

 我が輩はカワネコである。名はマス尾。

 宮城県ナトリ市の増田川に住んでゐる。
 今日も川や街をポテポテ歩いてゐる。夜明け前の川辺にたたずめば、幾重にも重なる橋の空高く月が白く輝き、山から滑空してきた風が背中の毛を優しくなで、朝を迎えた鳥達が喜びの音楽を奏でる。昼下がりの草むらを歩けば、花の蜜が濃密な香りを放ち、奥で魚の子らの遊ぶ姿が川面にキラキラ踊る。この麗しき光景は、一年中我が輩を魅了し続けてくれる。

 ネコという種族は心地よい場所を見つける天賦の才能がある。春は日溜まり、夏は木陰、秋は縁側、冬はコタツ、と米国のスパイ衛星の様に的を外さない。そしてそこを通りかかる人間を引きつけ、(猫嫌いでなければ)一緒にうたた寝させる磁力を持っている。
 又、観察力にも優れている。夜目が利くことは無論のこと、五感を駆使し、その場所の不思議を見出し哲学的な思索に耽る習性がある。
「猫の建築家という絵本があるが、あれは猫の空間的直感力をズバリ言い当てているよ!」
と溜息先生も興奮気味に話す。つまり猫とは、ポテポテ歩いて、ここはッという場所で寝ころび、あるいは瞑想をするのが勤めなのである。

 もし知らない街でリラックスした猫に出会ったなら、そこは間違いなく人間にとっても快適な所である。その証拠に、南欧にある石造りの美しい田舎町で出会った猫は実に優雅で丸々と太っていたし、インドのスラムで見かけた猫はその痩せた背中を灼熱の太陽で焼かれて歩いていた、とは先の溜息先生の弁である。だが、もし虐待に傷ついたネコを見かけてしまったら、そこに住まう人達の心の闇は計り知れなく深いかも知れない。

 ネコは地域のカナリヤである。

 ぜひ、人猫共同参画による都市計画を役人政治家諸氏にお勧めしたい。効率は悪いかも知れないが、間違いなく居心地の良い街になるだろう。

2004年7月5日月曜日

川猫マス尾のエッセイ 第1回


[地域情報マガジンWindsの宮城県名取市担当時代のエッセイを転載]

 我が輩はカワネコである。名はマス尾。

 宮城県ナトリ市の増田川に住んでゐる。
 かつて増水で溺れた時、川の神様から神通力を授かった。それからは人語も理解し、インターネットにもアクセスできるようになった。
 好物は焼き鳥である。近所の焼き鳥屋の親爺が「なんてぇマズい面のネコだ。」とつぶやきながら、毎日余った肉を分けてくれる。お陰ですっかり肥満体になってしまった。

 我が輩にはいくつか名前がある。 焼鳥屋の親爺からは「ミヨコ」。車椅子の婆さんからは「シロ」。近所の悪ガキからは「ブタねこ」または単に「ブタ」。
 「マス尾」とつけたのは建築家の溜息先生である。(彼は気分転換にカメラを持って休憩にくるのだが、仕事を失ってはタメ息ひとつ、仕事が溜まってはタメ息ひとつ、と毎日タメ息を川に捨てに来る。)
 このように人間達は勝手に名前をつけたがるのだが、これは名前をつけることで安心するという習性があるようだ。川を例にとれば、「地形の低いところに水が集まり、あるいは地下水が溢れて作り出す流れ」とイチイチ認識してはおれないので、ただ「川」と名付け、大半の人は「あ~川ねぇ。」ということでそれ以上考える習慣がない。

 我が輩からすれば、人間達は名前や肩書きに縛られ、行動や視野を狭くしているようにしか見えない時がある。もし彼らがネコや野鳥や魚になったつもりで、まだ名前の無い世界を見ることが出来たなら・・・。

 首をくくらんとするお父さんの何人かは正気を取り戻し、
 人を傷つけんとする若者の何人かはナイフをカバンにしまい、
 ゴミを棄てんとする子供の何人かは逆に拾ってくれる、に違いない。

 ちなみに我が輩がマス尾と名乗るのは、単純に気に入っているからである。そして我が輩にとって「川」とは、家であり、学校であり、光であり、音楽なのである。