2004年7月12日月曜日

川猫マス尾のエッセイ 第2回


[地域情報マガジンWindsの宮城県名取市担当時代のエッセイを転載]

 我が輩はカワネコである。名はマス尾。

 宮城県ナトリ市の増田川に住んでゐる。
 今日も川や街をポテポテ歩いてゐる。夜明け前の川辺にたたずめば、幾重にも重なる橋の空高く月が白く輝き、山から滑空してきた風が背中の毛を優しくなで、朝を迎えた鳥達が喜びの音楽を奏でる。昼下がりの草むらを歩けば、花の蜜が濃密な香りを放ち、奥で魚の子らの遊ぶ姿が川面にキラキラ踊る。この麗しき光景は、一年中我が輩を魅了し続けてくれる。

 ネコという種族は心地よい場所を見つける天賦の才能がある。春は日溜まり、夏は木陰、秋は縁側、冬はコタツ、と米国のスパイ衛星の様に的を外さない。そしてそこを通りかかる人間を引きつけ、(猫嫌いでなければ)一緒にうたた寝させる磁力を持っている。
 又、観察力にも優れている。夜目が利くことは無論のこと、五感を駆使し、その場所の不思議を見出し哲学的な思索に耽る習性がある。
「猫の建築家という絵本があるが、あれは猫の空間的直感力をズバリ言い当てているよ!」
と溜息先生も興奮気味に話す。つまり猫とは、ポテポテ歩いて、ここはッという場所で寝ころび、あるいは瞑想をするのが勤めなのである。

 もし知らない街でリラックスした猫に出会ったなら、そこは間違いなく人間にとっても快適な所である。その証拠に、南欧にある石造りの美しい田舎町で出会った猫は実に優雅で丸々と太っていたし、インドのスラムで見かけた猫はその痩せた背中を灼熱の太陽で焼かれて歩いていた、とは先の溜息先生の弁である。だが、もし虐待に傷ついたネコを見かけてしまったら、そこに住まう人達の心の闇は計り知れなく深いかも知れない。

 ネコは地域のカナリヤである。

 ぜひ、人猫共同参画による都市計画を役人政治家諸氏にお勧めしたい。効率は悪いかも知れないが、間違いなく居心地の良い街になるだろう。

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