2007年3月30日金曜日

建築とオートバイ


 もう一度オートバイに乗り始めた。

 学生時代は交通手段は250ccの中古のオフロードバイクしかなくて、毎日、雨の日も雪の日も当たり前に乗っていた。10年を経て久しぶりに乗ってみると、走りの感覚は割とすぐに戻ったけれど、運動不足による腰痛と体の切れの悪さがまるでオイルが廻っていない歯車のよう。

  むしろ体の変化よりも気持ちの変化の方が大きいかもしれない。 今考えると、20代は恐ろしい位の無茶をしていた。30代の今は少しは無理をしなくなった(と思う)。 ハンドルに仕事や家族への「責任」というものがぶら下がっているからだろう。
  また、ファッションに気を使うようになった。 安全面への配慮もあるがオートバイ乗りは一種の美学で乗っているわけでダサいのは乗る意味すらない。きっと装備を大事にすればそれだけ安全運転にもつながるだろう。
 もう一つ、クルマという足がありながらあえてバイクに戻る、ということの価値を考えながら乗っていることだ。維持費は軽自動車並にかかるので、道楽といえば道楽に違いない。スピードをだせばストレス解消にもなるのかもしれない。あるいは慢性的な日常のアカを落とし、ちょっぴり「自由」な気分を手に入れたいからだろうか?

  でも、見た目ほどオートバイは自由な乗り物なんかじゃない。
  何せ自分の身体にサディスティックな感覚を刻む乗り物だ。雨が降れば濡れるし、風に当たれば体は冷える。音楽はエンジン音と風切り音だけ。なによりも転倒すれば只では済まない緊張感が常に伴っている。だけども他の乗り物、つまりクルマでもヒコウキでも、ある質量の物体が高速で移動する乗り物は全て本質的には危険なものだ。 安全とは本質が身近にあるか否かの認識と距離感でしかない。
(これは建築でも一緒。)
  オートバイはむき出しの危険と乗り手の理性がバランスを取りあって走るもの。「死」と「生」の境界線を斬り結ぶように突き進んでいく感覚の一瞬を、きっとライダーなら誰でも味わったことがあるはずだ。 あらゆる生の選択の一瞬はこの手この足にある、ということを。

 この本能的な自由意志の在り処に気づけるのなら、 オートバイは自由な乗り物になれる。

  僕が乗っているのはヤマハ発動機のSRXというマシン。17の時に憧れていた、原点のようなオートバイだ。あのイノセントな不安な毎日と、地平線の向こう側に自分の居場所と自由を求めていた十代の感覚にはもう戻れないが、ハンドルを握ると、一方では時間が経っても何一つ変わらない自分と会話しているかもしれない。

  路上の風の中で。

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