先日参加した「仙台の森林を観る会」と「反景観論」の話。
近年の世相の動向としてこれほどコミュニケーションやネットワーク、結(ゆい)の復権が叫ばれ、つまり横へのつながりが求められているが、縦(時間的な構築)へのつながりの話が少ない気がします。例えば生産したものが長い時間周囲に影響を与え続けていく。建築自体もそうだが、植林は特にその気の長くなる時間で「環境」を作り守っていく営みそのものなのです。
だから人の手で大事に育てられた林の中に立つと、そびえる木立の高さよりも掛けられた時間の壮大さに言葉を失ってしまうのです。
だから花粉症で杉や檜が徹底的に敵視されることは非常に悲しいことだし、グランドデザインすら共有せずに行政の失敗を挙げ連ね、モータリゼーションや隣国の大気汚染に歯止めできない現状のスケープゴートにすらなっている感があるのです。
我々が理想とする里山のイメージ、雑木林があって、山菜が豊富で、子どもが駆け回るようなイメージは明治までは、村落の限られた人々の為の、人々の手による共有財産(入会林)でした。租税改正でそれが一握りの人に「所有」されたことで、「持つ者」「持たぬ者」にコミュニティ自体が引き裂かれてしまった「縦」の経緯があります。私有林で大事に山を保っている人がいる一方で、放置され憎まれる暗い山林がある。グローバル経済至上主義に沿わず、都市との連携や民意による第三の道をさぐるなら「所有」という考えに切り込まなくてはならないはず。社会の仕組みに根ざす非常に困難な課題です。
「観る会」で十分に話せなかったことは、家づくりでの土地選びですら、そこに生きていくという必然性が希薄になっているのに、単純に地産地消という価値だけを声高にすることへの違和感、両者のコミットメントが工事完了と共に途絶えてしまう違和感を感じている点。その違和感を解消するためには、排他主義に陥らないようもっと幅広い人の交流とアイディアが生まれて欲しい点でした。
(居住後の山と人をつなぐ仕組みとして薪暖房は実に有効なのだが、その考察については後日記したい。)
一方で拝見した美林を歩けば、光が下草まで届くので実に豊かな植生が見られました。名取の山林には以前紙漉きに利用していたミツマタの群生があり、黄色いつぼみがまるでイルミネーションみたいにまばゆい。僕なんかは花粉症の症状が治まり、清涼な空気にマスクを外したほど。
机上で憂うことよりも、ずっと多くの魅力と可能性がひっそりと息づいているのも、また事実なのです。
(7月13日加筆)
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