2009年3月18日水曜日

建材の地産地消についての勉強会

 昨日、仙台伝統建築職人の会企画の『宮城県産の建築材料のはなし』という勉強会に参加。
実はこうした建築士の勉強会はめったに参加することがなく、こちらは初めて。
 知り合いがいない、というのは気楽だ♪

 会場は参加者でほぼ満席。やはり業界関係者が多い。秋保石や雄勝石など一度使った材料はなじみの友人が紹介されているようで何だか嬉しい。石材に個性豊かな産地が多いのは、地震多発地域の裏返し、つまり活発な火山活動の恩恵だろうか?
 パネラーからの紹介や報告中心で、もう少し議論の時間が欲しかったのが残念。色々盛り上がるテーマだし、熱意がある生産者の声をもっと聞きたかった。年度末の助成をやりくりする為に急遽設けたイベントだったそうで、その割には大掛かりなサンプルも用意され、色々もったいない気もした。

帰宅の車中で、なんともやりきれない想いがこみ上げてきた。
「話しかける方向が違う」のではないか?
 もっと普通の人々(特に子供たち)に耳を傾けてもらえなくてはならぬ。ゆくゆくは、という意図だが、そんな悠長な状況なのかしらとも思う。
 確かに地産材を使うメリットは少なくない。安全安心であり、環境保全や文化の継承にもつながる。が、他の建材との価格競合で敗北している。
 だがもっと突き詰めれば、「必要不可欠なものではない」からだ。結果的に付加価値のついた、お金持ちの趣向品に留まらざるを得ない現状。しかし本当にそれでいいのだろうか?地酒ブームの反省が生かされていない気がする。

 地産材が、家をつくる人に必要とされるにはどうすれば良いのか?
そこに私は「物語の再構築」が助けになると信じている。
人は突然この世に生まれ、存在しているわけではない。その人がその人であるためには多くの物語(あるいは証人)という名の関係性が必要なのだ。
 そこに信じるに足る物語があるのかどうか。それが見えないのでわかりやすいブランドや呪い(まじない)に支配されてしまう。地産材を使う魅力は、「これだけ素材に愛を注ぐ人がいた!」という出会いの喜びと、「共にこの時代を生きている」ことの共感である。自然も含めて社会とはそうした目に見えぬ人々の心で構築されている。建築という行為はその縮図の投影でしかない。

 特にグローバリゼーションが崩壊しつつある今こそ、新しい関係の構築には建築家の果たす役割は少なくないはずだが、小さな王国に籠ってばかりで大きな運動につながらない。
 「アート屋台」の活動の方向は決して悪くはないと小さな確証も得ながらも、その中の一人と思えば、自分の努力不足に腹が立つばかりである。

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