2009年3月27日金曜日

河段の家[3]上棟式



[追記:後日上棟式の様子をまとめた動画を制作しました。当日は寒風ふく中、あまり告知できなかった割にはご近所の方々にお集まりいただいて、楽しい餅まきも実現できた。]




2009年3月24日火曜日

河段の家[2]建方


本日から建方開始。
一部複雑な形状なので3日かかると想定でしたが、思いの外早く組み上がってきました。
プレカット技術の恩恵とはいえ、随所で手加工が絡んでおり、やはり人間の衆知の力によるもの。

木々のシルエットと幾何学的な躯体の対比が美しい。
いつもこの姿のまま建築になるといいのに、と感じてしまう。

明後日26日15時から上棟式です。
昔ながらの餅撒き、直会をします。
効率化の風潮の中、風景としても珍しくなりつつあります。

ご興味がある方がいましたら、ぜひお越し下さい。
場所は仙台市の愛子駅・大門寺近く。

天気は寒波が来て寒くなりそうですが、どうか今日のように予報が外れますように。

2009年3月18日水曜日

建材の地産地消についての勉強会

 昨日、仙台伝統建築職人の会企画の『宮城県産の建築材料のはなし』という勉強会に参加。
実はこうした建築士の勉強会はめったに参加することがなく、こちらは初めて。
 知り合いがいない、というのは気楽だ♪

 会場は参加者でほぼ満席。やはり業界関係者が多い。秋保石や雄勝石など一度使った材料はなじみの友人が紹介されているようで何だか嬉しい。石材に個性豊かな産地が多いのは、地震多発地域の裏返し、つまり活発な火山活動の恩恵だろうか?
 パネラーからの紹介や報告中心で、もう少し議論の時間が欲しかったのが残念。色々盛り上がるテーマだし、熱意がある生産者の声をもっと聞きたかった。年度末の助成をやりくりする為に急遽設けたイベントだったそうで、その割には大掛かりなサンプルも用意され、色々もったいない気もした。

帰宅の車中で、なんともやりきれない想いがこみ上げてきた。
「話しかける方向が違う」のではないか?
 もっと普通の人々(特に子供たち)に耳を傾けてもらえなくてはならぬ。ゆくゆくは、という意図だが、そんな悠長な状況なのかしらとも思う。
 確かに地産材を使うメリットは少なくない。安全安心であり、環境保全や文化の継承にもつながる。が、他の建材との価格競合で敗北している。
 だがもっと突き詰めれば、「必要不可欠なものではない」からだ。結果的に付加価値のついた、お金持ちの趣向品に留まらざるを得ない現状。しかし本当にそれでいいのだろうか?地酒ブームの反省が生かされていない気がする。

 地産材が、家をつくる人に必要とされるにはどうすれば良いのか?
そこに私は「物語の再構築」が助けになると信じている。
人は突然この世に生まれ、存在しているわけではない。その人がその人であるためには多くの物語(あるいは証人)という名の関係性が必要なのだ。
 そこに信じるに足る物語があるのかどうか。それが見えないのでわかりやすいブランドや呪い(まじない)に支配されてしまう。地産材を使う魅力は、「これだけ素材に愛を注ぐ人がいた!」という出会いの喜びと、「共にこの時代を生きている」ことの共感である。自然も含めて社会とはそうした目に見えぬ人々の心で構築されている。建築という行為はその縮図の投影でしかない。

 特にグローバリゼーションが崩壊しつつある今こそ、新しい関係の構築には建築家の果たす役割は少なくないはずだが、小さな王国に籠ってばかりで大きな運動につながらない。
 「アート屋台」の活動の方向は決して悪くはないと小さな確証も得ながらも、その中の一人と思えば、自分の努力不足に腹が立つばかりである。

2009年3月10日火曜日

「ピランデッロのヘンリー4世」評


えずこホールでの串田和美×白井晃による「ピランデッロのヘンリー4世」。
友人からのお誘いで夫婦で出かけた1年ぶりの観劇であった。

魅力的な役者によるとても知的な芝居で、スタジオを連想させる白いスクリーンを使った舞台と、衣装を幻想の象徴として使っていたのが印象的。ストーリーは狂った主人公が演じるヘンリー4世の劇中劇を中心に進み、演劇という虚構の世界に、情報過多な現代社会を投影したまるで入れ子細工の様な少し複雑な内容。その虚構という演劇の醍醐味をたっぷり味わえつつ、中世の物語を観客一人一人の歴史と結びつけるような白井晃の演出と構成は非常にうまいと思う。一方で、西洋の個の概念で説く狂気と、日本の「滅私」や「無」という個の概念とをどう折り合いをつけていったのかが今一歩不明確であり、海外の原作ゆえの限界とはいえ、「演劇好きの芝居」を越えられなかったことが惜しまれます。

しかし「虚構で構築された世界」に立脚して、今の我々は生きている、という事実。

その虚実の正否を求めることは無意味であろう。例えアニメの人形に囲まれた青年にとってもそれが現実であるように、人は歴史という物語の衣を自分の好みに応じて身に纏っていく。それは自分という内面を確かめるために己の観念をはぎ取っていっても、最後は「無」であることが予感されるように。
今の時代の悩ましい所はその紡いでいた物語の衣が破れ、日常という舞台の上に役どころを失って立ちすくむ者たちの群像劇であることだ。断絶した世界を持つ者同士による不幸な出会いの象徴が、クライマックスの惨劇に込められているのだろう。狂気と正気が交差したその刹那、私には夢想した青年が起こしたいくつかの事件を連想させた。
芝居は原作に沿った悲劇的な結末であったが、それゆえに「虚構の世界の断絶」を乗り越える、何か救いのようなものも欲しい気もする。

こんなやっかいな時代に我々は新しい「物語」を刻んでいかなくてはいけない。
それはイノセントな無垢の生地で織りなす画一的な衣装を纏うのではなく、できることなら他者の物語の一片一片をちりばめた端縫い(パッチワーク)の衣装であって欲しい、と思う。

2009年3月4日水曜日

河段の家[1]


ようやく「河段の家」の工事が始った。

HPサイトでチェックして頂いてる方には説明は不要ですが、「河段の家」と名付けている通り、この敷地は宮城県の広瀬川が長い時間を掛けて彫り進んだ土地の先端にあります。
つまり、段丘というよりは完全な崖地に面している特異な場所。その高低差は26m。

設計以上に崖についての考察と調査に時間と費用を要しました。
崖の地形データを採取するために測量会社に依頼し、
道路のがけ崩れ等、土木を専門に行う調査会社に解析を依頼し、
更に微細な表層の地質を調べるために再度SS調査を掛けたり、・・・。

[写真:崖の測量風景。これを上り下りしての測量だった。]

その結果崖からの安全距離として出てきた建築可能範囲を写し取るように、「くの字」のプランが生まれてきました。しかし木造でこれを実現するのは様々な工夫が必要です。
確認申請でも苦労しました。

実際には「丁張り」でも地元工務店さんと方法を色々検討して、結果CADから算出したポイントを敷地に投影して測量。何とか誤差1ミリ以内に納めてもらうことができました。

新しい空間が出来上がっていくのは何度体験してもワクワクします。

2009年3月1日日曜日

改正基準法についての備忘録


 厳罰化・明文化された建築基準法。実務で直面すると法律よりもその運用面で色々「壁」にぶつかることが非常に多い。今後も国交省で問題点を改善していくだろうし、今はその過渡期に過ぎないのかもしれない。

 しかしその中でもリフォーム工事が非常に困難になってしまったことを、どれだけの人々が理解しているのだろうか?



 工場生産されたプレハブ住宅にお住いの方は特に用心して欲しい。かつての「大臣認定」が今は無効となり、特に昭和56年6月以前の木質系住宅は特例による救済対象からも外れている。
 例えば増築を伴うような工事の確認申請をすると、受付窓口から耐震診断を条件づけられてしまうが、プレハブ住宅、なかでも大型パネル接着工法の建物を耐震診断してくれる構造設計事務所は私が知るかぎり「無い」。
 実際リフォームの調査で色々調べ上げ、製造元の大手メーカーの担当者に相談したことがあるが、
「なんて法律を作ってくれたんだ、と我々も頭を抱えている」
と逆に嘆き声を聞かされる有り様。
 大手でも、専門家でもお手上げな診断を求められては、工事自体あきらめざるを得ません。

 確かに接着剤が強度を左右する建物で、それが永久に耐久性があるかは疑問だろう。
それに寿命が短いプレハブ住宅をより新しい基準の建物に建て替えさせる、という施策も背景にあるかもしれない。
 かつての夢のマイホーム、今は自分の財産である住宅に手を入れることを国によって違法となってしまうこの現状、周知が遅れていては改善の機運も育つものも育たない。

 そして何よりも気になるのは、法律を運用する側が罰則を恐れる余り、臆病になっている感触がある。これは結果的に個人の生活の創造という表現の巾を大いに狭めている事につながり、柔軟で活発な社会をめざすには悪い影響を及ぼす、と思うのです。

 「法律は蓄積された知恵の結晶」であるはずだが、運用面で如何様にも出来てしまう側面ばかり目立ち、昨今はその大きい触れ幅の危うさを感じています。