岩手・宮城内陸地震の被災地の住宅を見学させて頂く機会があった。
そう、間もなく1年になろうとしているのだ。
設計のご依頼主のご友人から、地震で住めない状態になった古い家をどうしたらよいか、という相談の話題があがり、翌々日には急ぎ友人の営む工務店のスタッフと一緒に現地集合。こういう話はタイミングが大事なのです。
よく晴れた絶好の行楽日和。されど道は工事関係者の車両が9割。
入口ゲートでチェックを受けて進行。
地割れで寸断された道路は今なお補修中で、ダンプの巻き上げる砂塵にまみれて進めば、どこもかしこも山崩れの傷跡生々しく、覆うように新緑の木々が輝いている。
ご友人の方の先導していただき、2軒を見学。
どちらも住まい手の方は高齢で直す当てもないまま現地を離れてしまい、処分に困って相談されたとのこと。どちらも築100余年、同じ「迫大工」棟梁の技によるものだとか。
1軒は塞き止め湖の上流側にあり、大きな屋根を地面に屈ませて建っていた。
茅葺きの茅による重みと梁に比べて柱と差し鴨居のサイズがやや小さいことが影響したようだ。それでも住まい手が無傷だったことを考えると、伝統構法が持つ粘り強さの証でもあるのだ。
岩手の狸庵を手がけていた経験があるので、伊達藩内の同じ農家である造りであることもあって柱や梁の掛け方や位置は手に取るように分かる。茅を残しているので、さらに古くその原形を見ているようだった。
貫構造の破壊状況を見るだけでも、伝統の技の限界能力を学ぶ上で非常に価値がある時間だった。
もう1軒は集落のさらに奥まったところにあり、つり橋を渡るため途中から徒歩での移動となった。
こちらは古い年代の家で、更に大きな材で組まれていたためほとんど壊れているところが無い。
しかし地震の強烈な体験に加え、生活基盤の崩壊に伴う不安がその地を放棄させてしまったとのお話。
しかし実り多き山、彩られた庭園の木々、十分手のいれらた耕地が春芽吹かんばかりに息づいている風景を目にすると、長い年月かかって作りだした人の風景であることが伝わってくる。
かつて神戸の震災地に足を踏み入れたことがあるが、あの駅前を出たときの風景が目に焼き付いて忘れられない。全てが歪んでいるため船酔いのような感覚に襲われたのだ。普段無意識に水平垂直の線に慣れていたかと思い知ったと同時に、都市という人工的な環境の脆さも露呈したのかもしれない。
それに比べて、ここにはその異常な感覚を起こさせるものはない。
あるのはただ自然の雄大さと優しさがあり、その中で時間をかけて獲得した人々の営みの痕跡だった。
家は次の大雪が来るまでになんとかできないものか・・・。友人の工務店も伝手を辿って買い手を探すことになっているが、できればこの地に立ち続けることがあるべき姿。最終的には骨董としての価値としてのばら売りする手段が残るだろうが、家という創造物ではなくなってしまう。このまま移築して生活の器として再生されることを願っています。
そう、人々の思いが年月を経た詩の様に引き継いでいって欲しいものです。
そしてまたいつの日か、この地にも新しい「詩」がながれるだろうか?
ご関心がある方はぜひご一報を。
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