2008年6月10日火曜日

この世界に生まれし子に祝福を

明け方5:00。妻の「始まったかも。」の声に目覚める。

夜遅くに寝たせいかなかなか頭がはっきりしない。聞けば今までに感じなかった痛みだという。予定日は明後日。今来てもまったく不思議じゃない。病院に電話し指示を受ける。
外をみると見事に晴れ渡った青空が広がっている。日が昇った世界はまだ新しい。暦をみると6月10日大安吉日。

7:00。病院が始まるまでの間に僕が朝食の準備をすることに。しかし動揺して手に付かず、冷蔵庫にあった手羽先をわざわざ七輪の炭火で焼く。良い匂いが漂うベランダで、取り乱す自分が愛おしいと思う。それを陣痛の合間に妻が美味しいねぇ、と食べた。

8:20。いよいよ陣痛の痛みもまして、病院に出発。自宅は4階なのでかなりの苦痛。車に乗せて、通勤ラッシュが終わった道を病院まで急いだ。

8:50。病院に到着。車イスで産科外来に急行。担当医の診察で即入院決定。行先は分娩室。もう子宮口が半分以上開いているという。僕は一端入院の荷物を取りに車に戻る。予感もなく始まった事態に頭がついていかない。

9:00。いよいよ分娩体制に。4ヶ月通い慣れた病院の廊下の末端に、ようやくたどり着いた。妻の陣痛は次第に短くなっていく。立ちあいの確認を助産士さんから聞かれ「立ちあう」と即答。前日まで迷っていたのだが、この一生あるかないかの機会を精いっぱい感受しようと思う。廊下で昼の間に生まれると聞いて驚く。遠くの森の緑が鮮やかに輝いて廊下を緑色に染めている。

12:30。子宮口は全開になり、妻は専用の服に着替え、テキパキと助産士さん達が出産体制に変えていく。僕だけ普段着でただひたすら手を握る。医師の説明ではあと30分位、と聞いて更に驚く。妻はお手本通り見事な呼吸法を続けている。出会った頃、子供なんて絶対生まないなんて言っていた彼女がもてる力を振り絞っている。その姿を見て、目が潤み視界がぼやけてくる。
13:26。ついにその時がやってきた。もう頭が見えている。地引き網の如く担当医の大きな掛け声で渾身の力を込めたその瞬間、ドワーッと子供がすべり出てきた。女の子だ!「うみゃー!」という元気な泣き声が、張りつめた空気をすべて溶かしてしまった。髪の毛が多い!顔が妻に似ている!妻の胸の上で、初めて放り出された世界にびっくりしているようだ。僕は涙を流すことはなかった。ただただ無事に子供と顔を合わせることができた幸運に感謝で胸がいっぱいだった。
妻に今の心境は?と尋ねと「ビールが飲みたい!」との返事。部屋が笑い声で包まれた。

夜。一通り済んで、ひとりで帰路につく。ふいに閉店間際の売店に立ち戻り、今日の朝刊を求める。店員さんが引っ張り出してきてくれた。記念にしようとしたその一面には東京の通り魔の事件が大きく載っていた。決して安穏ではないこの世界に彼女はこれから生きていく。心豊かに素晴らしい出会いでその人生が彩られるよう、空高く凛と光る上弦の月に祈った。